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カテゴリ:読書
  • ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』
    [ 2009-11-27 01:37 ]
  • ドストエフスキー全小説の読破
    [ 2009-01-21 20:11 ]
  • 黒沢明の『白痴』
    [ 2009-01-20 16:44 ]
  • 「スタヴローギンの告白」とビル・エバンスPeace Piece   
    [ 2009-01-13 19:59 ]
  • 鹿島茂の『怪帝ナポレオン3世』
    [ 2005-07-21 15:42 ]
  • ソジャ、おもしろくないぞ
    [ 2005-07-18 15:30 ]
  • 白鯨
    [ 2005-03-06 02:43 ]
  • 田辺源氏読了
    [ 2005-02-12 19:08 ]
  • 源氏の邪視
    [ 2005-02-04 15:20 ]
  • 田辺源氏を読みながら
    [ 2005-01-28 22:24 ]
ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』
映画『めぐりあう時間たち』を観て、いまいち入り込めず、これはきっと『ダロウェイ夫人』を読まなくてはいけないのだろうと、読んでみた。読んでみて、その書きぶりに魅了された。さまざまな人の意識をまるで憑依するように描いていく。「意識の流れ」という言葉だけは昔から知っていたけど、こんなにも魅力的な文章になるのか。いままでこんな見事な文学作品を知らずにいたことが本当に恥ずかしい。でも主人公クラリッサの元恋人ピーターは私とおなじ53歳。この歳になってこの作品を手に取ったことにもきっと意味はあるのだと思いたい。さまざまな人生の記憶。と同時に6月のロンドンのすべてが、この作品に結実していく。この本を片手にロンドン散策がしてみたくなる。いくつかの訳を渡り歩いて、最後は丹治愛訳(集英社文庫)で読み終えたのだけど、この作品は原文で読んでみたくなった。きっとすばらしい英文なのだろうと思う。NAXOS AUDIOBOOKでもうすぐ朗読のCDが出るようなので、それを購入するつもり。『灯台へ』の新訳がでてようなので、それを次に読んでみようとおもっている。
by takumi1956 | 2009-11-27 01:37 | 読書 | Comments(0)
ドストエフスキー全小説の読破
ようやく、ドストエフスキーの全小説を読み終えることができた。
処女作の「貧しき人びと」の美しさもさることながら、一人の作家がここまで成長しできるものなのなのかと感動する。小さな清流が最後は大河となって海に注ぎこんでいくのを見るようだ。とくに「カラマーゾフの兄弟」は巨大すぎて頂の稜線が見えないほどに立ちはだかってくる。これほどのものを吐き出した人間が8ヶ月後に朽ちるように死んだのも無理はない気さえする。ともかく圧倒的だ。あれこれ注釈をつけてレポートするのがなんだかばからしくなってくる。「いやーよかった、ありがとう」の一言でいいような気がしてしまう。
by takumi1956 | 2009-01-21 20:11 | 読書 | Comments(2)
黒沢明の『白痴』
ドストエフスキーの『白痴』を再読していた時、ずっと頭の中を、黒沢明の『白痴』のイメージが浮かんでいた。
黒沢明の『白痴』はあまり評価が高くないみたいだが、ドストエフスキーのこの小説のほんとうに見事な映画化だと思った。まずゴロージンの三船敏郎の演技がすばらしい。カーテン越しに森雅之をみる目。小説の見事な映像化。さらに金持ちの囲い者で娼婦の心と純真な乙女のような心の分裂した心を抱えた女を演じた原節子がとてもよかった。なのに原節子の伝記(平凡社)を立ち読みしたら、酷評されている。でももしこの路線で演じ続けていたら原節子は、小津安二郎の静止した時間に閉じこめれて引退することもなかったのではないだろうか。森雅之もわるくないけど、久我美子が高貴でいて弾んでいてとってもいい(さすが華族)。
たまたま『「罪と罰」注解』(S・ベローフ、群像社)の冒頭の「日本の読者へ」を読んだら、こう書いてあった。
「私は青年時代に日本の非凡な映画監督黒沢明の映画『白痴』からどんなに強烈な印象を受けたかをよく覚えている。それは今までのドストエフスキーものの映画のうち一番よいものである。この映画は多くの点でドストエフスキーの生涯と創作の研究者としての私の運命を決定したのである。」
by takumi1956 | 2009-01-20 16:44 | 読書 | Comments(0)
「スタヴローギンの告白」とビル・エバンスPeace Piece   
スターバックで『悪霊』を読んでいた。ちょうど「スタヴローギンの告白」にさしかかっていた。
今回再読してみて、あんがいオースチンの「偏見と高慢」みたいなのんびりとした家庭小説的なところもある小説だなと思ったが、さすがにこの「告白」の部分は息を飲んだ。犯した少女が納屋の中で首をくくって死ぬのを待っているあの時間の記述を読んでいて、ふと店内に流れているジャズのソロピアノが気になった。メロディが解体してピアノのつぶやきになる寸前で踏みとどまっているようなテンポ、知的に処理尽くされた静かな狂気のような演奏。どこかで聴いたことがあると思ったがなかなか思い出せない。「告白」を読み終わってようやく、ビル・エバンスのPeace Piece だと思い当たった。。
「告白」のなかの異様な時間の記述を読んでいる時にビル・エバンズのPeace Pieceが流れていたことのシンクロニシティに軽い驚きを覚えた。
by takumi1956 | 2009-01-13 19:59 | 読書 | Comments(0)
鹿島茂の『怪帝ナポレオン3世』
鹿島茂の『怪帝ナポレオン3世』。いつもながらの巧みな語り口にたちまち読了。フランス語ができたなら、同時代人のエミール・ゾラの研究でもするのだがなあとまたまた嘆息。

by takumi1956 | 2005-07-21 15:42 | 読書 | Comments(0)
ソジャ、おもしろくないぞ














ここ数日、エドワード・ソジャという地理学者の本、『ポストモダン地理学』・『第三空間』を読んでいる。ポスト・モダン地理学というものらしい。ポスト・モダンは大きな物語り(歴史)の終焉だとしたら、これからは時間な構造ではなく、空間の構造のうちに支配と解放の可能性の形が現れるということらしい。でもすごく話が抽象的で、しかもおもしろくない。(誤読だとしたら、失礼。でも半煮えのまま書き殴っているソジャにも責任はあると思う。引用されているボルヘスの短編「アレフ」も読んでみたけど、ソジャの読みに感心するというより、文学作品を引用しての気取りが鼻につく)。記号学が流行ったとき、都市論も流行ったけど、あれの方がずっとおもしろかった。かっこよさそうと、流行物好きの上野氏、さらにカルチャー・スタディの紹介者にされてしまった吉見氏まで入れ込んでしまったようだけど、なんだか空振りに終わるんじゃないだろうか。最近ずっと凋落の傾向にある(日本の)地理学の救世主とはならないように思える。
エドワード・サイデンステッカーの『東京下町山の手』とか江藤淳の『荷風散策』なんかを読んでいる時の至福感と興奮は望みべくもない。
先端文化人を気取っている人にありがちなのだけど、わけもなく、一見かっこよさそうなものを持ち上げたり、それを持ち上げて後光効果で自分をかっこよく見せようとする人がいるけど、一般大衆はそんなスノッブな気取りには鼻をつまんでいる。INAXやNTTなどが出しているおしゃれ系思想誌はほんとうに売れているのだろうか。自分で歌ったり制作したり演奏できないコンプレックスのつよい、芸術家気取りの、じつは大学に寄生している「評論家」に、こうした雑誌が食い散らかされないことを切に願うばかりだ。
by takumi1956 | 2005-07-18 15:30 | 読書 | Comments(0)
白鯨
京都に来てから、すこしづつメルヴィルの『白鯨』を読んでいる。
京都大学にいたHを訪れたとき、読み終えていたHがひどく感動して私にも勧めてくれた本だ。その時は読めなかったが、京都に来て、それを思い出して読み始めている。最近岩波版もでたけれど、柴田元幸が絶賛していた千田訳で読むことにした(文庫なのに上下で3800円もするのですこし躊躇したのだけど)。高い調子の訳文がかっこいい。
by takumi1956 | 2005-03-06 02:43 | 読書 | Comments(0)
田辺源氏読了
田辺源氏の宇治十帖を昨日読了した。宇治十帖がまとまった恋愛小説として読めて楽しかった。おせいさんに感謝。それにしても男の訪れに翻弄される女性の運命のはかなさを思わずにいられない。それは今も大差ないような気がする。男女のなかというのはまるで進歩していないんだなあと実感。さてこれからまた原文で若菜から読もうとも思うが、すこし頭が酒粕がたまったみたいな感じになっているので、先日買ったトポロジーの本を読むことにする。文学と数学を交互にするのは高校以来だが、けっこう頭の健康にいいような気がする。
by takumi1956 | 2005-02-12 19:08 | 読書 | Comments(0)
源氏の邪視
田辺源氏はすでに読んだことのあるところをとばして、若菜の巻から読むことにした。
若菜の巻は優れていると定評があるけど、たしかに中年期を迎えた源氏と紫の上の心理の彩も見事だし、柏木や女三ノ宮愚かさにも似た若さなど、よく書けている。話も起伏に富んでいる。それまでの話がすべて伏線となってこの巻で響き合って完結していく。見事な構成力だ。とりわけ柏木を死に至らしめた酒宴の席で源氏の邪視には驚いた。中年期の男の自信と迷いがとりわけたくみに描かれていて、これは平幹二郎あたりが演じたらさまになるだろうななどと勝手なことを思った。
たちまち本編を読み終えて、田辺源氏の宇治十帖に移る。薫が匂の宮に出し抜かれるの筋書きをしっているだけに、先を読むのがつらくて、しばし読みよどんでいる。
by takumi1956 | 2005-02-04 15:20 | 読書 | Comments(0)
田辺源氏を読みながら
昨日から、田辺聖子の『新源氏物語』を読み始めている。
以前、メールのやりとりから肉体関係までいってしまうネット恋愛が、平安の和歌の贈答からの恋愛に似ている、その原型を知ろうと遅ればせながら『源氏物語』を小学館の注釈本で読んでいたことがある。半分ほど読み、次が「若菜」の章、これから佳境というところで、いつものように止めてしまった。私の人生はいつも「これから」と言うところで止めてしまう。結婚も恋愛も。
それはそれとして、読んでいてすこし当てがはずれた。手紙をやりとりして夜這いして結婚というパターンが当時の恋愛パターンだとしたら、源氏のそれは破天荒でそんな手順など踏んでいないことが多い。見かけたらいきなり夜這いして抱きかかえて寝たり、すれ違いざまに寝室につれこんでしまったりしている。私はあきれてしまったのだが、ともかく源氏は普通の男たちの恋愛パターンを踏まなくていいのだ。それはつまり彼が帝の子供だからで、つまり、王家の驕り、王たるものの逸脱性があるのだ。
田辺聖子は源氏物語の最初の「桐壺」の巻が恋愛小説としてのおもしろさを減じているとして思い切ってカットしている。だか光源氏の振るまいを正当化するために源氏が王家につらなることを書いたこの巻は、たとえ退屈でも欠かせないものなのだろうことが、逆にわかってくる。
だがこうした傍若無人な振る舞いを、作者の紫式部は誰をモデルにして書いたかといえば、おそらく藤原道長だろう。中宮彰子の侍女として紫式部を雇った道長は、おそらく紫式部らの貞操を思いのままにしていたにちがいない。手紙や和歌のやりとりというちゃんとした手続きも経ないで、女房たちを思いのままにしている上達部やその候補生である上流貴族の子弟たちは、身分の高い女にはみせることのない厚かましい態度で、侍女たちに接していたにちがいない。私には西洋絵画・彫刻の「略奪」と訳されているいくつかのレイプ像が目に浮かぶ。
だが彼らの行為には、光源氏のような王権による正当性がない。だとすると、、、。そこには紫式部による道長への物語りによる「復讐」があるような気が私にはする。
by takumi1956 | 2005-01-28 22:24 | 読書 | Comments(0)




鴨川左岸にて
by takumi1956
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